このページは、私が読んだ本の中で、人間力を身につけるために大いに役立った言葉をピックアップしたものです。経営者も社員の方も、一人の人間として人間力を高め続けることが大切であると思います。少しでも参考になれば幸いです。
書籍名は「運命を創る」(人間学講話)、著者は安岡正篤先生、出版社はプレジデント社です。安岡正篤先生をご存じの方は多いのではないでしょうか。戦後より昭和58年に逝去されるまで、政財界のリーダーの啓発・教化に努め、歴代の首相の諮問を受けた方です。
【その11】 「小人(しょうじん)」と「大人(たいじん)」
人間の本質を「徳」と申します。徳に対するものに、才能や技能がある。人間の根幹は徳性であって、才知は枝葉である。
東洋の哲学の中では、徳が才より大なるを「大人」(たいじん)、「君子」型といい、才が徳より勝っている方を、「小人」(しょうじん)型という。西郷隆盛が大人型で、勝海舟は小人型です。もちろん、大人型にも小人型にも、"ぴん"から"きり"までいろいろです。小"大人"は、大"小人"にかないません。「徳」は人を包容し、育成する力です。これは聖人・哲人である。
人間そのものでなく、学歴とか、知識とか、いわば手段的・方便的な形で人間を用いてきたのが現代社会であります。こういう世の中では、機械的・単なる知識的・理論的な手段が通って人間の根本精神が忘れられている。いわゆる根本精神から出てくる識見とか器量、そして信念、その人の徳望というものが大切であります。
時勢は、こういう変化が起こってきておる転換期にさしかかっており、これをどういうふうに善処して、いかに日本を発展させるかは、優れた人物、優れた器量を持った人材の出現に待つほかありません。
※ひとことコメント
「人間の根幹は徳性であって、才知は枝葉である。」と安岡先生は言われています。同感される方々も多いのではないかと思います。そうであるならば、現代の教育の姿を考えるとき、「徳性」を片隅に追いやり、「才知」のみを教える教育になっていることの危うさを感じられることでしょう。根幹を主とせず、枝葉を教える教育で、良い国造りができるはずがない、良い人物が育つはずがないと思います。【その10】「見識」と「胆識」そして「器量人」
人間が利口とか、おとなしいというようなことは枝葉末節であって、花がきれいとか、枝ぶりがよいということです。要は、根や幹が人間としてできているかどうかなのであります。
人間は、いろんな経験から知識ができてくる。その単なる知識ならば大脳の末梢的なもので、本当は、全人格的な人間そのものを打ち出すことにならなければいけないこれを「見識」というのであります。
見識というのは、その人の人間内容が物をいうので、事に当たって、これこそが本当である、こうあるべきだ、なすべきだと「活断」が立つものであります。
近来、学校の学問では、いろんな知識は教えてくれますが、見識を養う教師が少ない。これが実際問題にぶつかって。いろいろな矛盾や抵抗に鍛えられ、きびきびした実行力になりますと「胆識」であります。
こういうことによって、人間のダイナミックな性格がいろいろ練られて、そしてだんだんと人間の「器(うつわ)」、あるいは「量(はかり)」ができてくる。いわゆる器量ができてくるわけであります。
大体、大学の秀才などは、人間の修養をしていませんから、知識は持っているが、人間そのものができておらん。これを「雑識」といって見識にはならない。修養をして器量ができてくると、知識も見識となってくる。そういう器量人となりますと、だんだんその人独特の存在が意義づけられてくるわけであります。
その人間の存在性・特殊性ができてくる。その内容が器量であります。そして活きた判断、活きた行動、活きた責任、活きた人生観、活きた政治観、活きた事業観となり、いろいろ人生百般の問題に活眼を開いて応用が効くようになります。それが「器量人」であります。
※ひとことコメント
知識とはコピーであります。知識を得るとは、単に、1+1=2であるという知識を得たということである。
見識とは、自分なりの本質的な理解であります。確かに、1+1=2ではあるが、直角の線の1と1を結ぶとルート2となる。あるいは、一人と一人が協力し合って行動する時、2人分以上の力を発揮することがある。1+1<2であるべきだという見解を持つ。たとえて言えば、これが見識だと思う。何事も見方によって異なるものであることを認識できる力、本質を見極める力を持つことである。
そして胆識とは、自らの見識を実践する中で、見識が自らの身体の一部となった状態をいうのだと思う。言い換えれば、実践というヤスリで見識を磨いたもの、それが胆識だと思う。その胆識は、人格の陶冶を経た者が持ち得るものである。人格と一体となった胆識でなければ意味をなさない。そのような人のことを「器量人」というらしい。
遠い道のりではあるが、そのようにありたいと思い、歩みを進めたいと思う。
【その9】骨力は創造力
政治にしましても事業にしましても、大体、やはり初代、創業の人は、総じて知識とか技術とかの形式的・機械的なことはしばらくおいて、顕著なことは、こういう人々は、概して精神気魄が旺盛であります。これを専門用語で、「骨力」といいます。
骨に気を載せると、「気骨(きこつ)」。気骨のない人は、どうにもならない。気骨のない人間というのは、平和で機械的なことをやらすことはできますが、一朝事が起きて、誰か責任をもってやらなければならない非常時には、だらしなく役に立たないものです。骨力とか気骨は人間の根本的要素で、人格の第一次的要素であります。
「骨力というのは、人体の創造力」ですから、人格としても、クリエイティブパワーで、そこで元気を骨力といいます。そこで骨力からは、いろいろのものが生まれてくるわけです。まず生まれるのが理想です。昔であれば、「志」という。人間は、常に志を持ち、理想を持ち、つねに生活を創造していく。それには一貫性をもって、いかなる障害があっても乱れない締めくくりを持つことが大切であります。理想・志というもの、これが人間の一番本質なのであります。
※ひとことコメント
もし気骨のある政治家がトップにいたならば、3.11に起こった東日本大震災においてどのように動いたであろうか?
哲学者である梅原猛さんは、こう言っている。
「宮城も岩手も被害は甚大だが、あの粘り強さがあれば遠からず、必ず復興できると確信しています。しかし、福島は別だ。今も収まらず、見通しが立たない。原発は止めるべきだったのだ。これは天災じゃない。人災だ。私は文明災だと考える。だからこそ文明を変えない限り収息の道はない。」
「八十六歳で今度の震災にあって、西洋哲学は人間中心主義という深い病にかかっていることを痛感しました。今回の震災を乗り越えられる唯一の道、それは同じ過ちを起こす文明からの脱却です。自然を畏れ、慈しむ新たな文明へと舵を切ることです。」
志・理想を持って、そして、先見性を持って、日本を、国民を導いていくリーダーが求められている。一方、我々国民一人一人も、他人任せにするのではなく、小さいながらも、志・理想を持って、それを実現していくべく日常生活の中で、できることを実践しなければならないと思う。
【その8】 六中観(後半) 古壺天・意中人・腹中書
「壺中天あり」
これには故事がありまして、「漢書」方術伝に費長房という者、一時汝南の市役所の役人をしておったのですが、これが市役所の二階から下を見ていると、城壁に露天商人が店を並べている。一老翁が夕方になって店をしまうのを見ていると、その老翁が後ろの城壁に掛けてある壺の中に隠れて消えた。ああいうのが仙人だなと見届けて、翌日待ちかまえていて、老翁が店をたたむ時にそこへ行って、「私は昨日、あなたが壺に消えたところを見たが、あなたは仙人だろう、是非私も連れて行ってほしい」と強談判に及んだ。では、ということになって、ふと気がつくと非常に景色の好い所へ出た。そこに金殿玉楼があり、その中へ案内されて大いに歓待を受けて帰されたというのであります。
人間はどんな境地にありましても、自分だけの内面世界はつくり得る。いかなる壺中の天を持つかによって人の風致が決まるものです。案外な人が案外な隠し芸を持っている。あるいは文学の造詣があるとか、音楽・芸術に達しているとか、信念・信仰を持っているとか、こうしたことによって意に満たぬ俗生活を救われていることがよくあります。そうした壺中の天はなかなか奥床しいものであります。
「意中人あり」
我々は、多少志があり何か事を為そうとすれば、意中の人を持たねばなりません。学校の校長先生にしても、そうした人を持たねば立派な教育はできませんし、事業をするにしても、銀行からお金を借りるのが上手というだけでは何ともなりません。いわんや大臣においてをやで、内閣でもつくるというからには然るべき人物が彼の帷幕に参じている。彼の意中に満ち満ちているというのでなければ本当の政治はできません。彼方此方から持ち込まれて義理や人情で大臣にせねばならぬ、心にもない人を大臣にするというのでは碌な政治はできません。いずれにしましても「意中に人あり」でなければ問題になりません。
「腹中書あり」
学問のためには腹中に書があるようでないといけません。頭の中の薄っぺらな大脳皮質にちょっぴりと刻みこまれたようなのでは駄目なので、わが腹中に哲学、信念がある、万巻の書がある――そうなっていないといけません。こうした精神の陶冶、生きた学問ということになりますと、急場の間に合わせようとしても駄目なものでありまして、平素から備えておかないといけません。
この頃つくづくと思いますのに、今日の日本は、ジャーナリズムもマスコミもこれくらい揃っており、また、大学も八百以上もあるのに、本当の意味の学問、教育がない。だから、そうしたところで育った役人や政治家、大事な立場にあるそうした人々に、何が最も大事かが分かった人、六中観のできた人、身心の活学の人が少ない。日本は、そうした人物が輩出しないことには、この難境を乗り切れません。
※ひとことコメント
「壺中天あり」・・・人は内面を高める何かを持つことが大切です。
それは、何でも良い。私は囲碁と書道を趣味にしている。囲碁は弱い2段(初段かも?)くらいだと思う。当初ルールがわかれば20級くらい、NHKの囲碁講座を見ていてある程度わかり始めると5級くらい。20級がハイキングなら、5級はジョギングという感じかもしれない。初段になると、目の前になだらかな丘が見えてくる。おそらく5段くらいになると急な登り坂になるに違いない。それ以上になると岩壁を登るようなことであろう。その上にプロ棋士の世界がある。素人からすれば、雲に隠れてその景色は見えないような気がする。没頭してあるレベルに達すると景色が変わってくる。そうなると、他のことについても、同レベルの心境の理解ができるようになるのだと思う。
「意中人あり」・・・誰でもあの人のようになりたいと思う人はいるのではないでしょうか?
そういう人を持っていることは、とても重要です。そのようになりたければ、その人の考え方・習慣・人生観などを学ぶようになるはずです。それを自分の日常生活の中に取り入れていくのです。そして、行き詰まった時に、「あの人ならば、どのように考え、どのように解決するのだろう?」と考える中から、解決のヒントが生まれるようになるのです。
「腹中書あり」・・・一生座右の銘とすべき書物を持つことができれば幸いだと思います。
私は「自己を磨く」(著者 赤根祥道)という書物を大切にしています。西郷隆盛が、佐藤一斉の言志四録の中から選び、座右の銘としたものを、説明したものです。佐藤一斉・西郷隆盛・赤根祥道の3人の熱い思いが伝わってくるようで、読むといつも目の覚める思いがします。
この本「運命を創る」は、1985年12月に発刊されています。今から、26年も前のことです。しかし、最後の文章を読まれて、どのように感じられましたか?そのまま今の日本の現状に対する言葉として、ぴったりあてはまるように思います。日本が少しも進歩していないことを実感するとともに、一方では、安岡先生のように、本質を見抜く力があれば、時代を超えた言葉を発することが可能となるのだと、改めて思いました。
【その7】 六中観(前半) 忙中閑・苦中楽・死中活
この「六中観」は、私の「百朝集」に載っております。この「百朝集」には曰くがございます。終戦直前に爆撃が激しくなった時、当時、東京の原町にあった金鶏会館に職員一同を集めていたのですが、何しろ初めて爆撃を経験するのですから、皆が何となく騒然として落ち着きません。そこで、朝起きると真っ先に皆を講堂に集め、皆が落ち着くように、先哲の感銘すべき片言隻句を採って紹介し、簡単な解説をすることにした。ところが、それをやっておると必ず空襲のサイレンが鳴り出す。すぐにそれぞれの部署につかねばなりませんでした。そんなことが百日以上続いて終戦になったわけですが、それを筆記していた者が後になって、ちょうど百朝になるというので「百朝集」の名が生まれました。
「六中観」の第一は、
「忙中閑あり」
ただの閑は退屈して精神が散じてしまう。忙中に掴んだ閑こそ本当の閑でありまして、激しい空襲の中でも十分、二十分の短い閑に悠々と一座禅、一提唱ができましたが、こういうのが忙中の閑であります。
「苦中楽あり」
苦中の楽こそ本当の楽で、楽ばかりでは人を頽廃させるだけです。甘味も、苦味の中の甘味が真の甘味であるわけで、これは茶人のよく知るところで、化学者がお茶のタンニンの中にカテキンという甘味を発見しております。人間も甘いだけでは駄目でありまして、一見苦味があるが、さて付き合ってみるとなかなか甘い、旨いという人もある。
「死中活あり」
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれであります。
※ひとことコメント
「忙中閑あり」・・・この百日の朝の講義こそ、忙中閑のお手本と言えよう。「忙」とは、その字の通り、「心が失われている」状態のことを言うのだと思う。毎日空襲を受けていれば、心は落ち着くはずはない。安岡先生は、皆の心が落ち着くようにと、先哲の教えを講義したのである。
「閑」は、暇であることではない。平常心が維持できている状態のことを言うのだと思う。ただ単に忙しい中でというのではなく、様々な悩みに追いかけられている時にこそ、「待てよ、平常心を忘れてはいないか?悩みの中に自分自身を見失っていないか?」と問いかけることが大切です。それこそが「忙中閑」なのです。「忙」の状態の中で、「閑」の境地を見いだすのです。。
「苦中楽あり」・・・人生を過ごすにあたって、苦しいことも多い。しかし、長き人生を何の苦労もなく過ごすことが、本当に幸せなことだろうか?苦しいことを経験し、乗り越えてこそ、達成感や幸福な気持ちを味わえるのではないかとも思う。避けられない苦境であるならば、その苦境を笑顔で抱きしめてみませんか?確かに苦境は、冬の寒風の如く厳しいものかもしれないけれど、反対から見れば、人間として成長する大きなチャンスであることも多い。どうせやらねばならぬなら、その苦境を楽しむ方が良い。
「死中活あり」・・・さらに、厳しい状況の中、まさに命をかけざるを得ないような、これ以上の底はないほどのどん底に落ちた時、そんな時は、開き直ることだ。どん底まで落ちた時、「もうこれ以上落ちることはない。後は登るだけだ。」と思えた時、明るく悠然と登り始めることができる。その境地に至ることができれば怖いものはない。必ず道は残されている。あきらめない!ということが大切である。成功するまでやり続ければ、失敗などなかったことになるのだから。
【その6】 六然 得意澹然・失意泰然
王陽明が高等官試験に及第して役人になったばかりの劈頭にとんだ災難を蒙り、逮捕、監禁、投獄されました。何が原因かというに、その頃、宦官といいまして、日本でいえば幕府の側用人に似た者がいまして、これが大変な権勢を振るっておりました。その中に劉瑾という非道(ひど)いのがいて、専横至らざる為しといった有様で、当時の人々の顰蹙を買っていたので、正義派の有志がしばしば弾劾を試みましたが、劉瑾は、こうした人々を片っ端から追放し、投獄して憚らなかった。
崔銑(さいせん)という人、これは硬骨の諫官として知られた人でしたが、この崔銑らが投獄された時に、若き王陽明はついに黙視できなくなって、「凡(およ)そ時政を忌憚なく批判し諫めることを以て本分とする諫官の地位にある者を捕らえるとは以ての外で意味をなさぬ」と痛論いたしました。これにより、王陽明は逮捕、投獄されたのです。
この時の崔銑が言ったという「六然」という有名な格言があります。これを知って以来この年になるまで、「六然」は私の脳裡にあって消えぬのでありますが、その第一は
「自処超然 自ら処すること超然」
これは自分自身に関しては一向物に囚われないようにすることです。これに続き
「処人藹然 人に処すること藹(あい)然」
ここに言う藹然は、春になって四方の草木が生き生きと繁り、春の生意が溢れたのどかな風情に満ちますが、そうした様のことであります。人に接するには人を楽しくさせ、人を心地よくさせるように、これが藹然であります。
「有事斬然 有事には斬(ざん)然」
事あれば斬然。この斬然というのはシナの俗語なのですが、事があるときは愚図々々しないで活き活きと、ということです。
「無事澄然 無事には澄(ちょう)然」
事なき時は水のように澄んだ気でおる。
「得意澹然 得意には藹(たん)然」
「失意泰然 失意には泰然」
澹は淡と同じ。あっさりしておる。失意の時は泰然自若としておる。
私はこの「六然」を知って以来、少しでもそうした境地に身心を置きたいものだと考えて、それとなく忘れぬように心がけてまいりましたが、実に良い言葉です。まことに平明で、しかも我々の日々の日常生活に即して活きています。
※ひとことコメント
「あらゆることにとらわれず、春風のようにさらさらと、しかし、いざという時には敢然と、そして、普段は澄んだ水のように淡々と、好不調にかかわらず一喜一憂することなく、飄然として生きていく。」六然をわかりやすい表現にするとこのようになるのかなと思う。簡単なようで、実際にこのような生き方をするのは難しい。
特に「得意澹然」、物事が上手く運んでいる時に平常心を維持することは、本当に難しい。好調が続くと、ついつい有頂天になってしまう。自分一人では何もできないのに、自分一人によって成し遂げたような誤解をしてしまう。好調の時ほど、周りに感謝し、今一度足下を固めることが大切なのだと思う。
そして、「失意泰然」、最近の人間は、私も含めて、苦境に弱いのではないかと思う。口は一人前になったが、それを苦境の時に試されることになる。すぐに弱音を吐いて、都合良く神頼みをしたりする。そんな場合が多いのではないでしょうか?逆境にあって、大所高所から状況を見極め、冷静に対処することができるようになりたい。そのためには、日頃から胆力を鍛えておかねばならない。
【その5】 兵学書「韜略(とうりゃく)」より
善を見て而も怠り、
時至りて而も疑い、
非を知って而も処る。
この三者は道の止む所なり。
この三つがあると、進歩が止まってしまう。「善を見て怠り」、この時機ということを見ながら、これを実行せず怠る。「時機」、「時」というものは、のべつ幕なしにあるわけではありません。必ず「機」というものがある。だから「時機」と申します。
人間の生命にも必ず「機」というものがあります。つまり、そこを押さえたら、それが他の部に、また、全体に響く所と、一向に何にも響かぬところがあります。つまり、「ツボ」「勘どころ」というものが皆あります。時というのは、そういうツボ、勘どころの連続であります。
この頃、連続、非連続ということが使われますが、「時というものは、機というものの連続」であります。だから、時というものをとらえようと思うなら、「機」をとらえなければならない。これは一度逃がしてしまえばなかなか始末におえないものであります。
その時が至っておるにもかかわらず、疑って、まだ時機が早いとか、やれ反作用がどうだとか言って、ぐずぐずする。それから、悪いと知りながら、何にもせずしまっておく。この三つがあれば、どうしても進歩が止まってしまう。
※ひとことコメント
この三つがあれば進歩が止まってしまうのであれば、この逆を行えば、大いに進歩発展することになる。
善を見れば、これをすぐに取り入れればよい。しかし、そのためには、謙虚な心がなくてはできない。どこまでも謙虚に、世の中には本当にすばらしい人がいるものだと感動しながら、そのように自分もありたいと思い、自分なりに学んでいけば良いのだと思う。
時至れば、待ち構えてこれをとらえればよい。しかし、それを為すには、真実を見極める力がなくてはならない。幸運の女神には、前髪しかないと言われるように、「決してチャンスを逃さないぞ」という真剣さと、日々自らの身心を磨く心構えがなければ、目の前に求めるものがあったとしても、見えはしない。
非を自覚したならば、即座に反省し、正しい方向へ転換すればよい。そのためには、自らの至らざることを経験できたということに対する感謝の思いを抱くことが必要である。見栄や外聞などに囚われるようであってはならない。周りに迷惑をかけたという、心からの反省の気持ちが必要である。
今年の正月のおみくじの言葉は、「他からの批判をいやがるのは、偉そうな思いの現われである。」であった。占いを鵜呑みにするつもりはないが、毎日その言葉を見て、自らを振り返るようにしている。他からの批判が、至らざるを教えてくれるものと思い、感謝することができるようでありたい。謙虚な気持ちを忘れず成長したいものだと思う。
【その3】 「思考の三原則」
私はいつも機会がありますと前提としてお話をするのですが、我々、特に中国民族、日本民族など、東洋民族の先覚者に共通に行われております「思考の三原則」ともいうべきものがございます。
ものを考えるに当たっての三つの原則。その一つは、目先にとらわれないで、できるだけ長い目で観察するということであります。第二は、一面にとらわれないで、できるだけ多面的、できるならば全面的にも考察するということであります。第三が、枝葉末節にとらわれないで、できるだけ根本的に観察するということであります。
物事を、特に事業の問題、あるいは困難な問題、そういう問題を目先で考える、一面的にとらえて観察する、あるいは枝葉末節をとらえて考えるというのと、少し長い目で見る、多面的・全面的に見る、あるいは根本的に見るということとでは非常に違ってきます。ことによると結論が反対にさえなるものであります。
時局の問題などは特にそうでありまして、できるだけ長い目で、できるだけ多面的に、できれば全面的かつ根本的に見なければ、決して正しい考察は成り立たんと信ずるのであります。
※ひとことコメント
この思考の三原則、「長期的・多面的・根本的に考察する」という原則は、実際に実践してみると極めて有用なものです。特に重要なことを、短時間で決定しなければならないような場合に、この三原則を活用すれば、まず大きく方向性を誤ることはなくなります。考える順番としては、私は、根本的に、多面的に、長期的に、という順番が良いのではないかと思っています。あるべき姿を考え、あらゆるケースを考え、タイムテーブルを考えていくというところでしょうか? 会社の将来を考えるのであれば、
「根本的に」という面では、どのような理想・志を持ち、どのような会社にしたいのかを明確にすることが必要です。
「多面的に」という面では、空間軸を動かします。世界の中で、日本の中で、その地域の中で、その業界の中で、どのような位置を占めているのか?どんな個性的な仕事ができるのか?持っている個性・技術を生かして進出できる新分野はないのか?人材は大丈夫か?取り巻く環境はどうであろうかなどと考えてみる。
「長期的に」という面では、時間軸を動かします。空間軸を動かして考えたことについて、3年、5年、10年後にはどうであろうかと思いを巡らせて見る。そうすると、会社の姿が立体的に現れてくるはずです。その現れてきた姿の中で、具体的に目標を定め、期限を決めていく作業をすれば良いのだと思います。
自らの将来の人生をどのように考えるか?についても同様の方法で答えを見つけることができるはずです。どうか一度トライしてみてください。
今、大きな変革の時代を迎え、政治を司る政治家や官僚の皆さんに、是非この三原則を活用して頂き、日本の進むべき方向を見いだして頂きたいものだと思います。
【その2】 「近代中国にみる興亡の原理」
私が感激したことの一つですが、終戦の時、上海で日本軍が降伏した時の降伏使節は土居明夫という中将で、敵の司令官は湯恩伯(とうおんぱく)という人で、日本の古武士のような性格教養の人で日本の士官学校でも学び、土居さんよりは年下だった。
土居さんが降伏使節となって敵の司令部に参ります。土居さんは、あいつは俺より年下だったが、これに降伏するのかと悄然として行った。そして司令部へ車が着いて、降りようと思ってヒョイと見ると、玄関に湯将軍が立っている。
奥深く傲然と待ちかまえていて、捕虜のようにひっぱって行かれるのかと思っていたところが、湯将軍が玄関に出迎え、つかつかと降りてきて、自ら自動車のドアを開け、土居さんを抱きかかえるようにして、途端に言った言葉が、「土居さん、長い間喧嘩したが、これで、もとの兄弟だ」と言って中へつれて入った。土居さんは感激のあまり涙が出てなんとも言えなかったそうです。
※ひとことコメント
この話を聞いて、極論のようであるが、人類とに残された救いを感じさせる。残念ながら、どれほど文明が進歩したところで、世界の多くの場所で戦争や争いが絶えない。地球を外から眺めることができるとすれば、「まだそのようなことをやっているのか」、と小学生でも思うことであろう。とはいえ、そのような中で、この湯将軍のような人間力のある人が存在していたことをうれしく思う。
戦後、日本経済は奇跡的な復興を果たしたが、一方で日本人は気骨を失ってしまった。そして平成23年3月11日の東日本大震災により、再び敗戦のごとき状況となった。「窮すれば通ず」と言われる通り、この機にもう一度私たちがどうあるべきかを考え、明確な志を抱くことが大切であると思う。
良きリーダーに登場してもらいたいという切なる思いはあるが、最後は一人一人がどうするのかにかかっているのだと思う。一人一人の熱い思いが、小さな行いの積み重ねが、東日本を、日本を、良き方向に進める最も確実な道であると思う。
【その1】 「運命を創る」
我々の存在、我々の人生というものは一つの命(めい)である。
その命は、宇宙の本質たる限りなき創造変化、
すなわち「動いて已まざるもの」であるがゆえに「運命」という。
つまり、「運命」はどこまでもダイナミックなものであって、
決して「宿命」ではない。
安岡正篤
※ひとことコメント